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第5話 人生が変わる夜

مؤلف: 酔夫人
last update تاريخ النشر: 2026-05-21 11:01:32

  『こんばんは』

突然降ってきた声に、サラリアは心臓が止まるかと思った。

同時に、ふわりと花のような香りが漂う。

甘いのに冷たく、夜の空気へ静かに溶けていく不思議な香りだった。

反射的に顔を上げる。

そして息を呑む。

塔の窓の外。

細い欄干の上に、一人の男が立っていた。

月を背にしたその姿は現実離れしている。

漆黒の髪。

長身の身体。

騎士のように鍛えられているのに、どこか獣じみたしなやかさを感じる。

夜そのものが人の姿を取ったかのようだった。

男が僅かに顔を傾ける。

その瞬間、月光が横顔を照らした。

縦に細長い瞳孔。

額に浮かぶ三枚の鱗。

本で何度も見た特徴。

「……竜王」

サラリアが呟くと、男は微かに笑った。

金色の瞳が細められる。

その笑みが恐ろしいほど美しい。

「番がいる気がして来てみたら、まさかサラリア姫とは」

どこか面白がるような声だった。

「死んだと聞いたが?」

「ご存知でしたのね」

「もちろん」

ラーシュは呆れたように肩を竦めた。

「姫の父上は嘘が下手だ」

思わず吹き出した。

初対面の男の前でこんなふうに笑ったのは初めてだった。

後宮で笑顔は武器だ。

自分を守るための仮面。

けれど今は違う。

ただ楽しかった。

ただ、この会話が心地よかった。

「どうしてここにいると?」

そう尋ねると、ラーシュは首を傾げる。

その仕草が意外なほど若々しい。

竜王という恐ろしい肩書きが、一瞬だけ遠くなる。

「姫を探していたわけじゃない」

ラーシュは言った。

「金色姫には多少興味があったが、神の化身だの五穀豊穣だのは信じていない」

その言葉にサラリアは少し驚いた。

誰もが信じていると思っていたから。

「だが民が安心するなら悪くないと思った」

だから招待した。

ただそれだけ。

その言葉が妙に嬉しかった。

初めて自分自身を見てもらえた気がしたからだ。

.

「身柄を要求されたと父は勘違いしたのだと思います」

サラリアがそう言うと、ラーシュはじっと彼女を見つめた。

その視線に胸がざわつく。

何かがおかしい。

そう思った瞬間だった。

「勘違いではなくなったな」

低い声。

心臓が跳ねる。

その目に宿った熱に本能が反応した。

ガタンッ。

勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れる。

サラリアは反射的にそちらへ視線を向けた。

そして再び前を見て―――固まった。

ラーシュが目の前にいた。

ほんの一歩。

手を伸ばせば触れられる距離。

いつ移動したのかも分からない。

「ここへ来たのは姫の匂いがしたからだ」

「に、匂い……?」

サラリアの顔から血の気が引く。

竜族は鼻が利く。

そんな知識が脳裏を駆け抜けた。

同時に思い出す。

三日。

三日も風呂に入っていない。

父王に押し込められてから身を清める余裕などなかった。

恥ずかしい。

消えてしまいたい。

サラリアは慌てて後ずさった。

そしてベッドへ飛び込む。

毛布を頭から被った。

「っ……」

穴があったら入りたいとはこのことだ。

けれど部屋は狭い。

逃げ場はない。

恥ずかしさを堪えながら、自分の状態を説明する。

「なんだ」

答えは、ラーシュの笑い声だった。

「そんなことか」

「そんなことではありません!」

毛布の中から抗議する。

するとさらに笑われた。

「気にしなくていい」

「気になります」

「気にしなくていい」

優しい声だった。

そして。

「とてもいい匂いだ」

その一言に顔が熱くなる。

心臓がうるさい。

毛布の中なのに耳まで熱かった。

「そんなわけ……」

反論しかけた瞬間。

くい、と髪を引かれた。

毛布からはみ出していた金色の髪を摘まれたのだと気づく。

びくりと肩が震える。

その直後。

ベッドが軋んだ。

ラーシュが腰掛けたのだ。

近い。

あまりにも近い。

毛布一枚向こうにいる。

それだけで呼吸がおかしくなる。

どうしてこんなに緊張するのだろう。

どうしてこんなに嬉しいのだろう。

自分でも分からなかった。

【③次話への誘導】

「竜王様……」

ようやく絞り出した声は情けないほど小さかった。

すると。

「ラーシュ」

囁くような声が返ってくる。

「名前で呼んでくれ」

心臓が大きく跳ねた。

名前。

誰もそんなことを求めなかった。

金色姫。

神の化身。

幸運の象徴。

サラリアはいつもそう呼ばれてきた。

けれど目の前の男は違う。

サラリア自身を見ている。

その事実が胸を熱くした。

「……ラーシュ」

恐る恐る呼ぶ。

するとラーシュは満足そうに微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間。

サラリアは気づいてしまう。

もっと見たい。

もっと話したい。

もっと知りたい。

そんな感情が芽生えていることに。

そして次の瞬間。

毛布がふわりと持ち上げられた。

月明かりの中。

至近距離で視線が重なる。

サラリアの呼吸が止まった。

―――この夜が、自分の人生を変える。

なぜかそんな予感がした。

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    【ラーシュ視点】使用人ですら、ラーシュの傍にいることをシーリアは許さなかった。世話をする者はいた。だが、誰も長くは続かない。情を抱かせないため。信頼を築かせないため。ラーシュが誰かを好きにならないように。誰かを信じないように。短い期間で使用人は次々と入れ替えられた。だからラーシュには友人がいなかった。話し相手も。秘密を打ち明けられる相手も。誰一人。孤独だけが当たり前だった。だからこそ。シーリアが一人の少女を連れてきた日のことを、ラーシュは今でも鮮明に覚えている。「シーラよ」紹介された少女を見た瞬間、ラーシュは思った。――似ている。シーリアに。名前も。顔立ちも。仕草も。笑い方までも。当時は偶然だと思っていた。シーラはシーリアの双子の妹の孫娘。血が近いのだから、似ていて当然なのだと。だが、違った。調査ですべてが明らかになった。シーリアは自分によく似た彼女を選んでいた。血が近く、容姿も似ていて、自分の代わりになれる娘。ラーシュへフォーデンになることを求めたように。シーリアはシーラへ、自分になることを求めた。フォーデン役はラーシュ。シーリア役はシーラ。二人が愛し合う姿を眺める。そんな狂った芝居を完成させるために、シーリアはシーラを自分になるように育てた。年頃になると、シーリアはシーラをラーシュの婚約者にしようとした。だが、それは叶わなかった。議会が猛反対したからだ。シーリアの意向は絶対だった。幼い竜王の後見人。誰も逆らえない。それでも婚約だけは認められなかった。理由はいくつもあった。サリンドラ公爵家へ権力が集中し過ぎること。ウィンドスケイル公爵家との均衡が崩れること。そして、ハトコ同士という近すぎる血縁。近親婚による子への影響を示す研究結果まで提出され、病弱だったフォーラの存在も追い風となった。結局、それをシーリアは覆せなかった。その決定が下された直後だった。冬の朝。シーリアは死んだ。雪の積もる庭で。冷たくなった姿を庭師が見つけた。竜人が転落死するなど考えられない。原因不明。犯人不明。結局、不審死として処理された。本当は誰も真相など知りたくなかったのだ。ラーシュも。祖母の死を知ったとき、胸に浮かんだのは悲しみではなかった。ようやく終わった。よ

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